昭和41年05月11日 朝の御理解



 まあ分かり易い、分かり易く申しますなら、自分の何か深刻な、願い事がある時には、同じ御神前に出ましても、しみじみと、心から拝みます。普通は拝んだり拝まなかったり、又拝んでもまあざあっと拝んどる。こう云う様な信心が、いくら何年、何十年続いったてもおかげは受けられません。これは拝むとか、修行するとかと云う事だけではありません。なるほど、あの神様は特別なおかげを頂きたいなら、その矢張り、特別な信心をしなければならん。 
人が人辺なら私しゃ行人辺と云う様な、その少しは変わった信心をさして貰わにゃならないと云うのはですね、変わったおかげを頂く時だけ、変わった信心をせろと仰っるのではない。良い信心、言わば変わった信心がそういう信心が続けられると云う事。私は皆んなが分かり易く簡単に申しておるので御座いますから、皆さんそれを色んな意味で考えて頂きたいとこう思います。
 一生懸命に拝む、それも一生懸命に拝む時には、何か特別に、深刻な難儀な問題がある時だけ、これで本当の、おかげ頂ける筈はないでしょうが。分かり易く申しとるのですから。例えば、私の事を言いますと、私は御神前に出て、御祈念をするのは、もう是はもう是はどんなに、難儀な問題を抱えておろうが、どんなにまあ普通の時であろうがです。私の御祈念はまあ朝で言うならば、一時間十五分ですか、大体これはもう、何時もかつもが一時間十五分なんです。
 皆さんの信心を見ておりますとですね、えらい信心が拝みござるなと思う時には。家庭に何か困った事の起きておる時、何かはっと気付いた時だけは、真剣に云うならば拝んで居る。普通はそれが、日頃実意丁寧になって御座ると思いよったら、何かお願いせにゃならん事があるもんなけ、一生懸命本気で実意丁寧になろうと努め御座る。一つ事が成就すると又元に戻って仕舞う。これではおかげは何時も堂々回りです。
 私しゃ思うのに、折角信心さして貰うなら、昨年より今年、今年よりも来年と云う様にです日勝り月勝り年勝りと、こう仰るお道の信心は、親の代よりも子の代にと言う様にですね。おかげがこう育つ大きくなって行かねばいかん。そんなら私共の信心も育ってゆかねばならん。確固たるおかげを狂わないおかげを頂く為には、私共が狂わない信心をしなければいけない。もう分かりやすく私言っておるのですから、どうぞ皆さんそこんとこ頂かねばいけませんよ。
 もう狂わないおかげを頂く為には、こちらの信心が狂いのない信心をせねばいけんでしょうが。何かお願いする、何か特別苦しい時だけ、大事な時だけ実意丁寧に、此頃おかげ頂いちゃると思いよったら段々横着になって御座る。我侭になってくる。これでは確固たるおかげになって来ないですね。どうぞ皆さん私しゃこりゃまあ私は御祈念、拝むと言う事だけ、例から申しましたが。
 何か自分が深刻なお願いする時には。晩の御祈念もほんとにゆっくりゆっくり拝まにゃおられんから、拝むわけなんだろうけれどね。成程拝むのがいけんのじゃありません。矢張り深刻なですねやっぱり、時には深刻な祈りを捧げる訳で御座いますけれども。おかげ頂いてほんと言うたら、よけいに御祈念でもせんならん、御礼でも申し上げにゃならん時には。信心の方が疎かになっておる。拝むのもポンポンと手を打ってから、もうそのザアーッと拝むと云った様な事ではです。ほんとなのおかげは頂けませんです。
 この人がこの頃又ほんとにもう横着になった、我が侭になって来たと思いよりますと。深刻な問題が起きて来る。そすとこんだしゃんしゃんとし出す。これが繰り返し繰り返しじゃもいかんでしょが。皆さんも困るけれど神様もお難儀です。ですからほんとにいうならば実意丁寧が神信心が身に付いてしまう、そういう信心がいよいよ垢抜けしてゆく。そう云う信心がいよいよ大きくなって行く。
 いわゆるおかげが垢抜けして来るしおかげが大きくなって行く、自分が困った時だけ一生懸命拝む。そりゃ困った事だけおかげ頂くともう後はざあっとなる。これではおかげの信用が無い。此頃又横着になった、我侭になった、又この度はしゃんとしなければならない様な事が起きて来るではほんとに難儀な話です。もう私共がほんとにおかげ頂かして貰うてから、こりゃ拝む事だけではなく実意丁寧神信心と云う事だけに私は分かり易く申しました。一事が万事にです、それを色々一つ頂いて見て下さい。
 何かお気付けでも頂いたら、深刻な問題が起きて来ると、新たに実意丁寧に、実意丁寧がも身に付いてしまわにゃ、御祈念なら御祈念さして頂くなら、一日の内には二時間なら二時間一時間なら、一時間とその御祈念が、自分の生活の中に御祈念の時間が。まあちゃっと出来なけれ、ばおられない信心にならなければ。神様はその連日拝んで呉れと云う意味じゃないですよ。
 けれども何時もかつもが、念入れて拝まにゃ出来ない内容を、頂きなさいと云う事。困った時だけ実意丁寧になるのじゃなくてですね。何時もかつもが実意丁寧が身に付いて仕舞う信心が。ほんとに自分のものになってしまう。信心が自分のものになる為に。神様が例えばお気付けを下さるとか、困った難儀な事があるというとするならば、私共の信心が確固たるものになって狂いの無いものになってくればです、困った事になる必要がなくなって来るわけです。
 皆さん、そう云うまあ自分の胸に手を置いて見てですたい、この様に別におかげ頂いてから特別お願いせにゃならん事もないごたる時には御祈念でもしたりしなっかたり、云うならざあぁっと拝んどると云った事はないでしょうか。先そう云う所から自分の信心が本なもんじゃない。これじゃほんなおかげは受けられない事を分からして貰うて。そこんところが自分のその御祈念なら御祈念が、自分のものになって仕舞うまで。実意丁寧な、実意丁寧が自分のものになって仕舞うまで。信心の稽古さして貰わにゃいけないと。それこそ自分の心に深刻な事があると何遍でん御神前に出て来て御祈念せにゃならん。
 なるほど御祈念する事は有難いですけれども。けれどもそこを一つ通り抜けますと。後はもういわゆる、あとはいわゆる横着になる、我侭になる。これではおかげは何時もそこんところから上に進展しないです。繰り返し繰り返しになって仕舞います。同じところどうでもわ、どうでもわの信心と云うけれども、そげな事じゃなかろうかと思う。どうぞ信心が自分のものになって仕舞わねば実意丁寧が身に付いて仕舞う稽古をしなければいけないと思うですね。
   どうぞ。